昭和四十六年十一月七日 朝の御理解
御理解第八十節 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先に生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者はよう心がけておるがよい」
[信心する者はよう心掛けておるがよい]と仰る。これは信心する者の心掛けなのです。ですから、年寄りを大事にするということはもう、信心させて頂く者の心掛けなのです。ですから、もう年寄りを大事にせない等ということは、信心する人にあろうとは思われませんから。けれども、本当に大切にする人は少ないと思う。年寄りをいらぬ者扱いにするとか、それはもう滅多にありません。年寄りを粗末にするような人はありません。けれども、それなら大切にする人は少ない。
例えば私がいつも申しますように、初めてお参りして来る方達に私お話申しますことはね、御教えを例えば難しく説いて上げてもわからない。それでもやはりおかげを受けたいと言うて参って来る。だから神様に通う何物かがなからなければ御取次が出来ないと思うから、私は申しました。「お先祖様を大事にしなさいよ。帰ったら御仏壇の掃除しなさい、お花も上げ替えなさい。そして、例えばお先祖ならお先祖の好きなものでも作ってお供えをなさい。熱いお茶を上げなさい、御神酒が好きだったら御神酒をお供えしなさい」と言うて、先祖の御霊様に心を向けるということ。
そういう心を向けることが、神様の御心に適うのです。ですから、親を大事にしなさいよ、あなた方が決して親を粗末にしているとは思われん。けれどもね、本当に本気で、親孝行せにゃおられんとか、親孝行しとうてたまらんとかという人は非常に少ない。親に孝行せんならんことはわかっておるけれども、親不孝というて特に親に心配をかける人はありませんにしても、本当に親孝行をしとうてたまらんという人は少ない。
だからね、今日を境に、親孝行をしとうてたまらんというくらいに心を入れ替えなさいと言うのです。皆そうです。決して親不孝しよる訳じゃない、親を粗末にしよる訳じゃない、年寄りを粗末にしよる訳はないけれども。それかというて、ここに「大切にせよ」と仰る。本当に大切にしよる人は少ないです。よくこう考えて見てご覧なさい。
だから私共、信心させて頂く者の心掛けなのです、これは。そういう心掛けを自分の身に付けて行くからこそ、そういう心が神の気感に適うのであります。そこから、神様と交流する道が開けてくる。そういう道を辿って、おかげも流れて来る。私共の思いも、又神様に通うて行くということになる。只、拝みさえすればええということじゃいかん。心掛けとして年寄りを大切にせなければいかん。
皆さんも薄々ご承知の方もあろうと思いますけど、一昨日の夜、久留米の石井さんがお国替えになられました。それはそれはもう静かなお国替えだったそうです。昨日、遷霊式の式をさせて頂きました。昨日午前中、博道先生を同道して参りました。本当に、その死に顔というのがね、神々しいまでに美しかった。もう娘のごとあった、七十何歳のおばあさんがね。本当におかげを頂いておる。
私は、あの喜代司さんがあんな風な人ですから、私を迎えに来ましてから、「本当におかげ頂きまして、本当におかげ頂きまして」と言いますからね、聞きようによれば何か親の死んだのを喜びよるように聞こえるのですよね。あんな変な言い方をしますから。けれども、段々お話を聞きよったら、「本当に喜代司さんおかげ頂いたね」と言うて私申しましたことです。
帰って参りまして、普通ならば愁嘆場であったり、または、何か陰鬱な気持ちで、そして帰ってからの祝賀会ですからね。喜代司さん、「今日ばっかりはお宅祭りに行って帰りのごとある気持ちがする」と言うて申しましたことでございます。兄弟達が皆集まっておりましたが、そういう雰囲気だったんです。本当に死んだけんまあよかったというような、その厄払い的なものでなくてね。それはどういうことかと言うとね、「親先生、それはおかげ頂いとると思わんわけにはいきません」と、その後生の、ちょうどその亡くなられます朝、お医者さんが見えましてから、まあ後一時間くらいしか保てんと言われたそうです。それが夕方まで保ったと言いますからね。
おかげ頂いて、もう子供達にみんな。大体が肝臓癌でございましたから、大変苦しいそうです。亡くなる時、医者がたまがったそうです。来る度にあまり安らかにしとるから。食べ物でも死ぬちょっと前まで果物を頂いたりしてね。
それで一番最後に子供達がみんな集まったところでね、「かおるさんが、かおるさんが」と言うたのが最後だったそうです。それで後は言わんでもわかると呼んだそうです。それが、かおるというのが嫁なのです。もう本当にかおるさんが、まあようしてくれたと言いたかったらしいです。そしたらね、兄弟達やら、かおるさんにみんな、なかなか難しい兄弟があるのです。あそこには娘たちが、その娘達が本当にかおるさんに手をつかんばかりにお礼を言ったそうです。
かおるさんが言いよりました。「もう本当に長い間のあれでしたけれでも、妹さんやら、姉さん達からお礼を言うて貰うじゃないけれどもね。やったことがね、こげん嬉しいことはない」とかおるさんが言いますから。「有難いねえ、それでもあんたが真心で奉仕しとったことを神様がお聞き届け下さったつよね」と言うてから話したことです。
そういう中にです、時間的にちょっと早かっても遅かっても、ここのご祝儀とか又は祝賀会にね、困ること。昨日告別式等ということであればどうにも出来ない。それでまあ今日午後二時からの告別式でございますから、とりわけひとつ、久留米の方達は参って頂きますように、そんな話でございましたかね。
いわゆる、今日、私教典を開かせて頂いたら八十節、年寄りを大切にせよというか、そういう年寄りを大事にさっしゃったでなくてね、もう兄弟達やら娘達からですよ、あれは珍なものですね、近所におります娘達がちょくちょくやって来て親を大事にすると、もうその娘がとても大事にするごとある。近所におる弟嫁が来てちょっと大事にすると、もうそれがばさらが良かごとある。そして家の嫁は気が付かんとか、そういう雰囲気だった、実際は。
ところがですね、ところがそうでなくて自分が息を引き取る時にかおるさんに、本当に御礼が言いたかっただろう。御礼を言ってくれと言わんばかりに、「かおるさんが、かおるさんが」と言うて亡くなった。それが後を言おうとしたけれど言えなかった。そういう意味のこと、時間的にも。天地のこと自由になると仰るが、人間息の差し入れのことに至るまで。お医者さんは一時間しか保てないというのが、それから八時間保てた。そこんところに、まあ家のおばあちゃんは何とおかげ頂いとるとじゃろうか。茂先生の御結婚式の夜お国替えを頂いたことが有難い。
まあ有難いことが幾つも重なって、こんなにも間違いがないと。幾つも重なって、子供達も遠方におったのが皆間に合うて、意識のある間に皆が到着したと。日頃の信心、神様に御礼を言わにゃおられません、先生、第一誠之助というのが弟です。弟達夫婦が信心がございませんでしたけれども、その誠之助さんが毎日、朝お届けに参りました。
それが有難いことに、この人が「あんなに弱かったのが、朝参りするようになって、兄さんとっても僕は元気になった」と言う。もう「母はね、有難いものを幾つも幾つも残して行ってくれました」と言う。私のかおる、自分の嫁です。「かおるも、例えば昨日の御理解じゃないですけれども、もう本当に馬鹿のごと言われながらでも真心込めて親に尽くしてくれました。それが兄弟達がみんな御礼を言うてくれるところまで行ったということも、これは親が残して行ってくれました」行き戻りの車の中でね、そんなこと、有難かったと、ことの内容を話す。
しかし、本当にそう思いますね。お互いが、一生全うさせて頂いたらです、本当に、有難い雰囲気が後に残せれるようにね、おかげを頂く。だから、その晩のお通夜の時に、いろいろ旅行してあった時の八ミリですかね、撮ってあったのを、一晩中それを見せられておったから、先生達もまるっきりじめじめしたような雰囲気がなくて、ところどころでは大笑いするような、そのあれを見せて頂いた。
そういうおかげを頂いて、今日の遷霊させて頂いて、もう一家中の者が安心がいったと言うて大変喜びました。これなんかも皆さん御承知の通り、ちっと過ぎりゃせんかというくらい年寄りを大事にしますもんね、石井の子供達は。そういうおかげを頂かしてもろうてるからこそ、例えば昨日の御理解で言うと、ひとりでにものが出来るようなおかげになるっとる訳です。
ああいう、例えば、喜代司さんが言っておりますことが、主人を、お父さんを早く亡くして、私達これだけの人数をそれぞれに、片付けるところに片付けた。しかもあのような、本当に、私が一番はじめにここに御神縁頂いた時なんか、本当に難儀な時でした。それが言わばあれだけ成功させて頂いた。しかも有難いことはです、ひとりでにものが出来るようなおかげを頂いてるということです。それがどういうことかと言うと、喜代司さんにしろ、今のかおるさんにしろです、確かにちょっとめでたいところがある。
昨日の祝賀会のお届けをさして頂いた時、神様から「めでたい」と頂いた。そこで私は、いつも申しますように、成程めでたい。けど人間がめでたいということはどういうことかというと、本気で馬鹿と阿呆になること。昨日の御理解はそうでしたね。もうそれこそ人は笑うても神様から笑われちゃならんというのですから。馬鹿と阿呆にならなければ出来ることじゃありません。
かおるさんの場合でもそうです。兄弟達からあまりよくは言われんながらでも、黙って辛抱してから、何かあまり引っかからん感じが致します。本当にめでたい。親方達夫婦が本当にめでたく出来てる。なら、めでたく出来ておるから、商売の方がおかしいかというとそうではない。ひとりでにものが出来るようなおかげを頂いておる。しかも親が亡くなられる時に、本当に有難いと、七十四年間の御礼を申さして頂いて、神ながらのお国替えが、それこそ一分一厘間違いのないお働きの中にお国替え頂いたということは、何と有難いことであろうかと、「先本当に有難いと思います」と言うて、繰り返し、喜代司さんそのことを御礼言うております。
「信心させて頂く者はよう心掛けておくがよい」 私はそういう意味に於いて、喜代司さん達夫婦の信心はちょっとした手本だなと思いますね。年寄りを大切にする、その信心させて頂く者の心掛け、その心掛けをです、ならどういう心掛けにならせて頂いたら、年寄りを大切に出来るかということ。
私は今日は、どこまでもお互いがめでたくならなければ大切に出来んと思います。年寄りになると理不尽なことを申したり致します。
無理を言うようなこともあります。言うなら、もう役には立てませんけれども、今まで役に立って来られたということ。人間は自分の考えで先にこの世に出て来たのじゃない、年寄りはそれだけ世のお役に立たせて頂いとる道理であるから、年寄りを大切にせにゃ。
それこそ楢山節考じゃありませんが、本当に、姥捨山的な考え方が、もう本当に平気であんなことが出来る。結婚するなら、「カー付き家付きばばあ抜き」なんて。本当にいくら冗談だってそういうことをテレビで平気でそういうことを言うておるが、年寄りがそれを見よってどう思うだろうかと思いますね。ああ、本当に若いもんからそげん嫌われとるじゃろうかと思うてね、本当に言いよるもんの口を塞ぎたいように思います。
信心させて頂く者はここの辺のところを心掛けとかにゃならん。そしてです、例えば本当に親を讃えるというか、親の働きに本気で感謝させてもらう。だからこそ大切にするということでなく、大切にせなければおられない心が生まれて来る。神様に通う心、それは私は若い信者の方達に申しますように、本当におかげが頂きたいならば親を大切にせねば。それは大事にしよるだろう、ろくそうにはしよらん、お粗末にはしよらん。けれども大切にせろごとしてたまらんという心がないでしょうが。
私がおかげ頂いたのもそれだと思うです。もう本当に両親に親孝行したいばっかりが一念で、信心に打ち込んだのですからね。だから私は、おかげ頂いとると思う。皆さん方、大切にしておられるでしょうけれども、大切にしなければおられない心をね、私は作って行くことが信心。ならその心掛けとしてどういうことになるかというと、心掛けのまた心掛けということを今日申しました。それには本気で私共がめでたくなる稽古をせにゃいけんということが。本気で「馬鹿と阿呆で道を開け」と仰る。馬鹿と阿呆にならせて頂ける稽古をせにゃいけんという。限りなく美しゅうなる、限りなく豊かになり大きくならして貰う。それがめでたいことに通ずるんだというようなことを、一口でしたけど、そういう御理解を頂きましたですね。
今日の石井さんところの告別式に私は、天地の親神様にも御霊様にもそのことを私は先ず御礼を申したい。信心させて頂く、信心一家、家中が信心させて頂いとるおかげで、その御霊のおかげで後にこのように尊い信心。それは何十年間という長い間、それは戦争という何もかも灰にしてしまったというところから立ち上がって、又はお父さんが亡くなられた。そういう大変な難関を、母はもう一筋に金光様だけで生き抜いて来たということを、車の中で申しとりました。本当にそうだなあと申しました。
そして子供達に、嫁達にその信心が伝わって、ああいうどっちかと言えば変人であるところの喜代司さんなんかが、ああいう素晴らしい信心になって来た。その根本になるものはね、喜代司さん達夫婦が確かにめでたく出来とるということです。あの人が言うことじゃないけどね。「腹かけば馬鹿らしか」とこう言うのですから。もうそれがね、あの人達がああいうおかげを頂いて来た。とても馬鹿と阿呆にならなければ腹かかずにはおられんことがあるはずである。
腹を立てたら馬鹿らしか、いらいらもやもやしたら馬鹿らしか、馬鹿らしかということは、おかげがつながらんということをはっきり知っているのです、この人は。だから人が辛抱の出来んように腹立のつことでもです、もうそれこそ平気で受けて行くでしょうが。もうこれには私は驚きます、いつの場合でも。これは喜代司さんがめでたくなる、本気でそういうところを把握しとるわけです。そして他所の年寄りなんか非常に大事にしますね、喜代司さんは。
私は今日は、石井さん一家をこうしてお話し致しましたが、実際はほめ過ぎじゃないです。皆さん御承知の通りです。だからこそ、あのようにひとりでにものが出来るようなおかげを頂いとるのです。「年寄りを大切にせよ」、それは「信心する者はよう心掛けておくがよい」と結んでおられます。信心させて頂く者の心掛け、そんなら、どういう心掛けにならせて頂いたら年寄りを大切に出来るか、いや大切にせねばおられない心が生まれるか、という心掛け。それは一つ本気で、私共がめでたくなることだと思います。どうぞ。